自信のないことは失敗する。練習するということは、その仕事なり、競技なりに慣れて間違いのないようにするのが、その形から見たところで、その実は、信念をねりかため、ねりあげるのである。きっと出来るぞ、きっとやるぞ、と動かぬ信念がその事を成就させる。
信ずるという事は、事実そうであるから、それと信ずるのではない。そうであることは、信ずるも何もない。もうすでにそうである。ほんとうに信ずれば、そうなるのであり、必ず信じた通りにさせるのである。
「信ずるが故に神あり」とは、この事をいう。信ずる所に神が現れ、仏がまします。故に、「信は力なり」と言う。
人は、縄をもっては、その肉体をしばる事はできるが、その精神をくびることは出来ぬ。人の心をかなしばりにしばりつけるものは、ただひとつ信(まこと)あるのみである。 (万人幸福の栞 十五 信ずれば成り、憂えれば崩れる ー信成万事ー P104~105より)
自信のないところは、失敗する。だから練習をする。そして、練習することで、間違いのないようにし、繰り返し練習することにより、出来るという信念が練かたまり、動かぬ信念となり、成就させる。
信ずるということは、事実そうであるということを、それと信じずるのではなく、事実は信じなくとも事実であり、自分の成就させたい思いを本当に信ずることで、必ず信じた通りにさせること。 人は、縄をもって肉体を縛る事はできるが、その精神をくびることが出来ない。人の心をしばりつけるのはただひとつ信あるのみである。とありますが、信念がその人をしばりつけるということかもしれませんね。
その人が信じているものが、その人をしばりつける。自分自身が自身をしばりつける。そのことに気づき、今の自分の信じているものは何かと自身に問いかける時間をとり、自分を見つめ直すことで、自由になれるのかもしれません。
「祈り」は、神にすがって信念を確立するのであり、大宇宙の大信念と一致しようとするのである。「祈るときすでに成就したものと思え」とは、そのことである。
悪人を善人にする唯一つの道は、信ずるにある。悪人だから信じられぬというのが常識であるが、悪人だから信ずる。信ずるから悪をしないのである。信は、動いて愛となる。そして、すべてをうるおし、すべてを満たす。ーーー
憂えるのは疑うからである。あぶないから憂えるのではない。憂えるから失敗する。憂えるからあぶない。病気は恐れ憂えるから長びく、重くなる。事業は憂えるから崩れる。農業のような自然力によった仕事でも憂えるから実りが悪くなる。うれえるの反対は、喜ぶことである。希望にもえること、信ずることである。(万人幸福の栞 十五 信ずれば成り、憂えれば崩れる ー信成万事ー P106~107より)
祈りは、信念を確立する行為であり、祈るとき成就したものと思えなどは、「引き寄せの法則」のかなったようにイメージし、感謝するということに通ずるところがあるようにおも、思います。
「悪人を善人にする唯一つの道は、信ずるにある。」この文章を読んで、大阪の飲食店の人たちが、刑務所からでてきた人の就職を支援したり、雇用したりという活動をしている話を思いだしました。前科をある人を雇用するということは、経営者として勇気のいることです。まさに、悪人を善人にする唯一の道、信ずるということを実践されているのだと思いました。なかなか出来ないことですし、そういった活動を通じて、善人が増えていき、よい社会や、よい世界の創造につながっていくのではないかと思います。
また、今の章で、憂えるという言葉がよくでてきますが、私は、憂えるという言葉を普段あまり使わないので、一度、意味を調べてみようと思い、調べてみました。
うれ‐える
うれへる 【憂える・愁える】
《下一他》悪い結果になりはしないかと心配する。心をいためる。または、そうなることを嘆き悲しむ。
「国の前途を―」(Oxford Languagesの定義より)
悪い結果になりはしないかや、未来を心配することのようですね。
そういった不安の気持ちが、心配している未来を引き寄せるということかもしれませんね。
自分なりに、学んだことをまとめてみました。
- 自信のないことは失敗する。失敗するから練習する。練習することで、信念がねりかたまり、成就する。
- 人が縛られるのは自らの信念である。自身が何を信じているのか、時には振り返えることが大切。
- 人をよりよくするためには、その人を信ずることが大切である。
- 不安な気持ち(憂える)や信念が失敗や不安な未来を引き寄せる。喜んで明るい理想の未来を想い描くことで、成功や明るい未来を引き寄せる。
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