存在の原理 についての考察 (7つの原理 丸山敏秋著)

 7つの原理の「存在の原理」を読んで私なりに、理解したことをまとめてみました。


存在の原理は、存在をそのまま受け入れることのように思います。

そのなかで、倫理の「はい」の実践がでてきます。

そのまま「はい」と受けると、倫理の実践ではでてきますが、こちらも、悪いことでも、なんでも、「はい」といって従うのかといういう解釈をされる方がおられますが、こちらも本文でもでてきますが、「そのまま受け取るとは、なんでも、言われるままに、主体性なく行動することを意味するのではありません。」ということで、「受けて立つ」ということで、

一切をそのまま受け入れる。文句なしに、選択せずに、好悪せず、何も思わず、その全部を、有り難く喜んで頂戴するのである。仕方なしにやるのではない。もちろん、いやいやながらするのではない。頑張るのでも、構えるのでも、「これはひとつ、きっとやらねば」というのでもない。ただ、やるのである。その時、すべては、心のままに、成る、生まれる、変わる。

「ほんとうの働き」というのは、全く何も求めるところがなく、その仕事に全身全霊をうちこんで働くこと、そして何もかもカラッポのこころになって喜んで進んで働くことである。
ここに、己が何も求めずに働くとき、その働きに応じて報いられるということが倫理の原則であることが明らかにされた。 

稲盛和夫氏がいわれていた「仕事を好きになり没頭して働く」ということや、堀江貴文氏がいわれている「好きなことに没頭する」という状態におも近いように思います。

遊動一致の境地
「喜働」に徹していくと、その働きから余分な動きが消え去り、静まって見えます。仕事に一心を傾けている人の仕事ぶりは、まるで遊んでいるように映るではありませんか、

はたらきが、「動」の相(すがた)にある間は、まだ真のはたらきではない。動極まればおのずから静、働きのままがあそびとなり、あそびが真のはたらきとなる。一にして二、二にして一、静動一如、これが存在の姿である。


なにかをなし得るにあたって、今の現実をそのまま受け入れ、喜んで没頭して働くことが大切なのかと思います。1日24時間、理想の目標に向かって、喜んで働くそれが、遊んでいるように見えるそれが、究極の姿かもしれません。24時間、わくわくすることで埋め尽くし没頭する。24時間、理想の目標に向かって喜んで働き没頭する。みんな同じことを言われているように感じました(^^)

 

己を尊ぶの極は、ささげるにある。ここに人を尊ぶと己を尊ぶと、一如の絶対境があらわれる。ささげ尽くして己がなくなった時、一切が己となる。天地が己となる。自他一如、舎我の絶対境である。

ささげ尽くして己がなくなった時にすべてが己になる。すべてが自分だと思えるから、すべてをささげれるのかも、しれません。存在の原理とは、すべては、自分であり、この世界は自分が創造してているということを言っているのかも、しれませんね。



   

7つの原理


著者:丸山 敏秋(まるやま としあき、1953年 - )は、日本の社会教育者。一般社団法人倫理研究所理事長[4]、日本家庭教育学会副会長[5]日本会議代表委員[6]

コメント