なぜ、「心を高める」ことが、人生の目的、意義なのかということを、「仏教聖典」を引用
して、とかれています。
この世界は心に導かれ 心にひきずられ 心の支配を受けている。
汚れた心でものを言い また身で行うと
苦しみがその人に従うのは、
ちょうど牽く牛に車が従うようなものである
しかし もし善い心でものを言い また身で行うと 楽しみその人に従うのは
ちょうど影が形にそうようなものである
悪い行いをする人は その悪の報いを受けて苦しみ
善い行いをする人は その善の報いを受けて楽しむ
この心が濁ると
その道は平でなくなり
そのために倒れなければならない
また 心が清らかであるならば
道は平らになり 安らかになる
心が濁るとわれわれが歩む道は平らでなくなり、
一方心が清らかであれば 人生という道は安らかに生きることができるであろう。
稲盛和夫氏いわく、これは経営にもあてはまることだといわれております。
心が清らかであれば、経営は安定したものとなり、そして、「心を高める」ということは、心を善き方向に導いていく、心を美しくしていくということであり、人生や経営までも好転させていく基になるとのことです。
思考は現実になる。人は思った通りの人生を生きる。に通ずることかも、しれませんが、人というのは、場面場面で色々な感情や思いを持ってしまいます。
私、自身も、先日、私のグループに入っていないグループLINEで、長文で、私のせいだということをある人から理路整然とかかれていたことがあり、それを見た別の人が私のところへその長文をコピペで送ってくれて、知ることができました。その書いた人は私の前では決して、その様なことは、いわず、私が入っているグループラインでも、あたりさわりのないことしか言わず、いないところでは、長文で理路整然と批判をいわれており、前々から、少し変わっていると周りの人からも、聞いていたのですが、それを見た私の友人が、教えてくれまして、内容も、自身が仕事を遅れているにも関わらず、その責任をすべて私にあるように書かれて、正直いやな思いをしました。
ただ、その人は、自身の能力をひけらかし、まわりの人を批判し、論破することを、仕事とおもてっているようなところがあるようで、その話を、教えてくれた友人にしたところ、同じようなことを、彼の参加している団体の幹事会でもいわれているとのことでした。
そして、まわりからも、批判をうけているそうです。
批判をすれば、批判がかえててくる。
人は鏡、まさに、体現されているような出来事が、身近であったので、書かせていただきました。
また、私の友人も私と同じく彼から批判を受けていた、そうなのですが、友人は、別に人の批判をしたり、悪くゆうような人ではなく、まわりの人をどちらかとえいば、大切にし、義理堅い人で、批判家の彼から、まわりの人に批判されたところで、そんなことは、ないということを周りの人も理解されていて、どちらかといえば、批判家の彼の方が、白い目でみられている状況です。
善いことをすれば、善いことや楽しいことが起こり
悪いことをすれば、悪いことや苦しみが起こる。
プリミティブな話かも、しれませんが、日々、仕事や日常に追われていると
ついつい忘れてしまうことなのかもしれません。
批判家の彼は、プライベートな付き合いをあまりされない方なので、
なかなかこういう情緒的な話をする機会は、ございませんが、
批判家の彼にも、このことに気づき、心やすらかな日々や幸せな人生を歩んでてもらえるようになればと思います。
最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。
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まだ、読まれていない方は、良書なので、ぜひ、買って読んでみてください(^^)
著者 稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年(昭和7年)1月21日[2] - )は、日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長。日本航空名誉会長。
(ウィキペディアより)
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